【スタッフ日記:梅原拓未のキシキシぷらむ視界β】 の記事一覧

とん とん とん

2014年11月13日


こんにちは、ラオス修練所 梅原です。

他団体の先生が修練所にお越しの際、昔懐かしい遊び道具をお土産に持ってきて下さいました。ありがとうございます。

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最近は しゃぼん玉やけん玉、コマなど、生徒たちと懐かしの遊びをする機会が大変多かった。そこで私は何の気なしにとある手遊びの歌を口ずさんでいるのに気づいた。糸巻きの歌だ。

仮にも女子である以上、幼少期において、糸まきの手遊びを誰しも一度は経験しているのではないか。
その作法には、地域性や年代による多少の差異があるかもしれないが、私が記憶しているやり方は、こうである。

いーとーまきまき、いーとーまきまき、
やさしく握った両のこぶしをくるくると胸のあたりでタテに回転させる。
ひーて、ひーて、
ここで両手を左右に引き離しては人差し指の第一関節どうしが触れあう程度に戻す仕草を二回。
とんとんとん、
最後の仕上げに左手を下にし旋律に乗りながら右手を三度軽く打ちつける。
続けて反複。動きは変わらないが、とんとんとん、のおわりの音調が微妙に下がる。これでおしまい。続くようで続かない、なんと話にもどかしさが残る。

何度か、どこからともなく糸状のものを引きずり出してきて、右手で持ち、歌どおりにやれば本当に巻けるものなのか試したものだ。それはボタンを留めるためのありふれた縫い糸だったり、主に古紙となった新聞をしばることになる透明に赤く平たいテープだったり、さまざまだった。共通して言えることは、とにかく、巻けないということ。

糸巻き巻き、糸巻き巻き、引いて引いて、とんとんとんしても、どうなるというのだろう。糸を巻くということはどういうことだろう。そもそも最初に糸まきまきしているのだから、そこで巻くことは完成していなければならない。ひいてひいてとんとんとん、は、何をどうしているのだろう。
力なく膝に落ちたそれを見おろして途方に暮れたのを覚えている。

最近になってふとこの歌を思い出し、あの通りに手を動かして、これはもしやと唐突に閃くものがあった。
糸巻きではなく、織り仕事の歌だったのではないか?

ラオス家庭でよく見る織り機の動作と重ね、考察してみた。
いとまきまき、いとまきまき、
すでに筒状の木片に糸が巻きつけてあり、右手で調整するそのかたわら、左手で編み機の横に取りつけてあるねじをしめていく。
ひいて、ひいて、
本体とは別に、常に糸と一体になっている平たい道具を、タテ糸のすきまをぬって右から渡し、左から戻す。
とんとんとん、
ここは糸の端をととのえているか、あるいは、足で踏む機能のそれかもしれない。

いーとーまきまき、いーとーまきまき、
卵をつぶさないような柔さの右手でくるくると、左手はしっかりくっくっとまわす。
ひーて、ひーて、
右手を左がわに流し、また右にすべらせる。左手はお休みか、いーとーまきまきの時のままでもいい。
とんとんとん、
両手を開いてそろえた指ではしっこを優しくたたくか、足のつま先をきもち力づよく地面に打ちつける。

このでたらめな想像に基づく一連が、幼い思い出を上書きしてしまわないよう願ってやまない。
恐らく、ちょっと調べれば、歌の源や由来などはわかってしまうのだろうが、どこかもったいない。

無知のさなかで夢中になっていたことを、できれば一秒でもながくそのままにしておきたい。ある程度の知識を得てなお、あのころのいとけない遊戯にうずもれていられるものか、私にはちょっと自信がない。

あれはひょっとしたらこういうことだったのかもしれないな、そのくらいが心地いい。
知ることと引き換えに想像力を失うわけでもあるまいに。それどころか好奇心に満ちていて、延々と思いめぐらせていたいのだから…なんとややこしい。

最近、これまでにやって来たことを私なりにつなぎあわせていけそうな予感がしている。固定するものとしないものを勘で読み分けなければならない段階なので、ことさら及び腰になっているのかもしれない。

とんとんとん、と仕上げのところまでたどり着くころには、自分の中の緩急や強弱、濃淡、つまり均衡が掴めているように。いろいろなことの仕組みを学んで、それでも、疑問や謎をかぎつけ、更に開いていけるように。

おぼつかない足取りだって遠目に足跡を見ればきっと一筋。自分自身も、こどもたちの成長にも、そこに希望をおいている。


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『武道カウンセリング』

2014年10月28日

どうもこんにちは。
ラオス修練所スタッフの梅原です。

小沢隆首席師範のラオス滞在にあたり、我らがラオス文芸部の百々健 部長が『武道カウンセリング』を施していただきました。

まずは、百々部長をご紹介させて頂きます。

【百々部長の勇姿】
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東京で長年、詩人、カメラマンとして活動をして、審査員なども勤めた事もあったそうです。詩人仲間ともよく意見交換をして、とても精力的に活動をしていたそうです。ところが、あるショックな出来事から創作活動が出来なくなったそうです。
上記の最近の写真ではこんなにも、元気に見え、精力的に文芸部創作活動をされております、百々部長ですが、実はうつ病を抱え、ディヤーナ国際学園に来る直前には、度重なる心労と、うつ等に加え、東日本大震災が重なり(部長の実家は岩沼市という被害の大きかった地区)、自分を見失い、家族をも信用出来ない、そんなとても辛い精神状態の様でした。そんな事から、うつによる、自殺懸念に加え、寝たきり状態となり、医師から身体の老化が激しすぎてこのままでは命の危険すらある。と診断され家族と学園スタッフのサポートのもと、武道稽古で身体を動かし、精神を修養し、さらに心に寄添ってコミュニケーションしてくれる周囲のスタッフや生徒達との心の通い合いから、心のエネルギーを取り戻し創作意欲も湧き始めました。
段々と行動も意欲的になり、ディヤーナ国際学園の施設を日本寮、フィリピンカブヤオ寮、ラオス寮へと移り住む中で、様々な人に出会い、様々な事を感じ、それにファインダーを向け、一瞬を切り取っていく。 そんな活動を続けておりました。

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百々部長の写真作品

始めは個人的に創作活動をしておりましたが、その中で、有志を募り、ディヤーナ国際学園文芸部を設立。
そして、これまでの作品を、有志とともに写真や詩の公募に応募すると、なんと!『恵みの国ラオス』と題した写真集が、マイナビのコンテストで優秀な成績をおさめ、結果が発表される前から電子書籍化が決定しました!
これには一同喜びました!Amazonにて購入出来ますので、是非ご覧下さい。
また、詩の作品の方でも最終選考に残る等、名実ともに活動が活発になっております。

以下に、文芸部の活動をリンクさせて頂きますので、合わせてご覧下さい。

写真集『恵みの国ラオス』
http://www.amazon.co.jp/s/ref=ntt_athr_dp_sr_1?_encoding=UTF8&field-author=POGE&search-alias=digital-text&sort=relevancerank

ディヤーナ国際学園文芸部のブログ
http://laos.hatenablog.com/

キシキシぷらむ視界
http://shuzo-takkyun.hatenablog.com/


さて、話をもどし『武道カウンセリング』
まずは、小沢先生から身体の連動性を高める武道的リラクゼーション運動と呼吸法を学び、行います。手を肩の力を抜き、ぶらぶらと揺らすその様子はまるで腕に気を纏っているようにも見えました。次は床にあぐらで座り、鼻で息を吸い、ゆっくりと口から少しずつ息を吐く。それを3分間行います。

小沢先生にこの運動の意味を聞いたところ、「体感覚から入ると催眠誘導しやすい」との事でした。体感覚は不自然を嫌い、武道的リラクゼーション運動を行うことによりナチュラルに催眠状態に入ります。

そして、カウンセリング。
百々部長は以前にも2回ほど武道カウンセリングを受けているので安心感を抱いているのか、すぐに深い催眠状態に入ったようでした。

近頃の百々部長はうつ病に悩まされていました。
私も同じ寮で生活しているので、とてもつらそうな所を多々見ています。
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『武道カウンセリング』を通し、自分自身の普段は意識することのできない深いところに眠る自身の声を聞き、対話し、過去未来現在を見つめ直すことが出来たようです。
カウンセリング後の百々部長はとても穏やかな顔をしていました。


普段、不本意に抱く感情は深層心理への寄り道にしか過ぎないと私は考えます。対象が物理的、精神的、いずれにせよ、です。例えば子どもがある特定のゲームをねだるとき「みんなが持っているから」という理由を挙げることがあります。しかし、本当に求めているのは人の輪のなかで安定することであって、0と1の集合体でないのではないでしょうか。皆無意識のうちに" 置き換え "ないし" 書き換え "をしてしまってはいないでしょうか?


『武道カウンセリング』を通して催眠状態にして自身の声を引き出す、という不思議な光景を目の当たりし、見学していただけですが、多くの学びがあったように思います。

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体験希望の方は〜
ディヤーナ国際学園
0265−35−8615




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ぷらむのプリン論

2014年10月23日


例えば赤いものと白いものを別にして洗うように、言わずもがな、自明のことというものが世の中には幾つもある。
それはもはや理由や常識の範囲など問うまでもなく、誰もがほとんど感覚的に共有する絶対的な肯定。

だが、何故、ことの端緒の多くはプリンからなのだろう。

ヨーグルトでなく、ムースでなく、ましてスフレでもない。
プリンである。圧倒的にプリンである。
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